眠りの女神が純白の比翼を広げ、彼を世界に招き入れようとしたとき、耳朶に響くかすかな音色がそれを阻んだ。
 雨音だ。
 水銀を流し込んだように凪いだ曇り空から、銀色のしずくが大地にいくつもの模様を穿っている。空の一滴一滴が地表にぶつかるたび、彼を女神の誘惑から救い出そうと、警笛を鳴らしているかのようだった。
 いままさに眠りにつこうとしていた紺野翼は、鉛ののし掛かったまぶたを持ち上げ、眠りの女神に別れを告げた。軽く身じろぎする。全身の関節が目覚めを喜ぶように気泡を弾かせた。まだ翼端に捕まろうとする脳を頭を振って振り落とすと、ようやくのことで目が覚めてくる。
 教壇に立つ社会科教師は彼の居眠りに気づいていないようで、誰も聞いていない蘊蓄を饒舌に語っている。あの様子では、授業の終わりまでずっとしゃべっているのだろう。
 翼は興味を失った教師から視線をはずし、窓の外を眺めた。
 彼の目覚めからわずかな時間しか経っていないのに、雨脚はだいぶ強い物となっている。教室内では、傘を持ってこなかった幾人かの生徒が、心配そうに様子を窺っていた。
 きょうは、一週間ぶりの雨だった。
 そのことが、彼と、教室内の幾人――そして降雨地域に住む何百人にとって天の恵みであるかは、天気予報を見るまでもなく明白だった。だから、雨を見ながらにやつく生徒がいたとしても、また切なげにまぶたをふるわせる者がいても、誰も咎めない。
 銀糸と言うよりも水滴の形すら判別できるほど強くなってきた雨を見て、翼はほほえんだ。
 待ちに待った、雨の日だった。





         晴れた日は雲に乗って





 ホームルームが終わるのと同時に、教室内は女子生徒の黄色い歓声に包まれる。
 いつの時代でも、女性のもつ瞬発性は男性を上回るのだった。きょうと、明日の予定を早口で取り交わすクラスメイトを尻目に、翼は準備もそこそこに駆けだした。いまは、一秒だって惜しいのだ。
 教科書やらノートを走りながら鞄に詰め込み、廊下を縦断し、下駄箱でくたびれた革靴に履き替える。中から一葉の手紙がこぼれたことにも気づかない。乱雑に戸を閉め、雨の中に駆けだした。
 外は、濃密な水と土のにおいが待ちかまえていた。成長を始めた水たまりを飛び越え、あるいは汚れることを無視して横断し、一直線に家路へと付く。学校から翼の家までは、歩いて十五分ほど。走れば八分ほどで着く。いままでの最高記録は六分だったが、きょうはその記録を塗り替えそうだった。
 九月の末ともなると、気温は日ごとに低下を繰り返し、夏頃であれば気持ちの良かった程度の雨も、いまでは無情にも体温を奪いさってゆく。無理な運動と、冷たい雨のせいで風邪をひく危険性もあった。
 だが、そんな危険性は彼の頭にない。それどころか、風邪をひけば学校を休めるとさえ思っていた。もちろん、学校が退屈だから、というだけの理由ではない(理由の何割かを占めていただろうが)。家にずっといられるからだった。
 翼は学校にそれなりの楽しみを見いだしていた。授業も、退屈ないくつかを除けば、嫌いではない。休み時間、クラスメイトと交わす雑談は交友関係や見識を広めてくれたし、昼休みに行われるハンバーグパン争奪競争は、学生にとって平和的な代理戦争だった。
 だが、そうしたあらゆる事柄をすべて積み上げても、家に引きこもれるという麻薬に近い誘惑に勝てるわけではない。
 傘代わりに鞄を使うことにさほど意味を見いだせなくなった頃、家の玄関を駆け上がった。濡れたまま廊下を渡ることを彼の母は絶対に許さなかったが、叱責を受けるまえに姉の部屋に入ってしまえば問題なかった。そこは、家族の誰にとっても不可侵領域だったからだ。
 そうであるからこそ、翼は教室を出たときよりも機敏に行動した。人間誰しもがそうであるように、ホームで取る行動と、
アウェーで取る行動では、前者のほうがよほど質的に上等だった。具体的には、機敏かつ重厚となる。
 濡れたという表現が生ぬるいほど雨水を貯め込んだTシャツや制服を脱ぎ捨て、適当に乾いた服に着替えると、タオルで頭を拭きながら姉の部屋に駆け込んだ。
 この間、わずか二分。
 母はなんの言葉も発せぬ内に息子を娘の部屋へ駆け込ませてしまった。


 開けるときは音を立ててしまったが、入ってからは後ろ手に、ゆっくりと音を立てないように気を付けて閉める。ここは聖域なのだ。不作法など出来るはずもない。
 カーテンで閉められた窓を介して、雨音が響いている。空調が行き届いた室内は外とは比べものにならないほど快適だった。だからこそ、姉の眠りは妨げられることがない。
 翼は足音をたてないようにベッドへと近づいた。寝息は聞こえない。ただ、かすかに動く布団が姉の呼吸を伝えている。ベッドの傍らまでよると、翼しか使わなくなった学習椅子を手元に引き寄せ、腰を落ち着ける。
 あどけなさを残す姉の寝顔は、彼の苦労などまったく関係ないと言わんばかりに穏やかで、そして綺麗だった。厚い雲に覆われ、ろうそくよりも弱い光の元でも、姉の美しさはちっとも変わっていないように彼は思った。
 端的な形容詞を用いた場合、翼はシスコンだった。十年以上――姉に姉以上の感情を抱いている。その感情は自分だけしか知らないはずだったが、どうやら姉は、彼の一生の秘密を探り当てているらしい。
 感情が悟られているかも知れない、という考えは、時折かれの行動に影を及ぼすことがあった。ここ最近寝不足が続いているのは、何も雨が予報通り降らないからではなく、姉に悟られていたらどうしようかと悩んで、眠れないからだった。
 翼は不思議に思っていたが、女性にはこうした感情を察知する特別な機能が備わっているのだ。そして男性はいつも振り回される。
 彼の目の前で姉が身じろぎした。雨音を気にしているのだろう。何度か寝返りを繰り返す。やがてほぅと吐息すると、姉のまぶたがゆっくりと持ち上がる。
 さあ目覚めだと彼は思った。今日、あの雨の中を駆けてきたのはこのときを待っていたからだ。姉が目覚め、そして最初に目にするのが自分であるという、ささやかな儀式を執り行うために彼は駈けてきたのだった。
 一重まぶたが何度か瞬きし、天井から窓へ視線をおろし――反対側に座る弟の姿を網膜が映し出す。
「……あれ? おはよう……?」
 幾分かすれた声で彼女は微笑った。まだ事態がよく飲み込めていないようだった。
「うん。おはよう姉さん。ちなみにもう」翼は腕時計に視線を落とす。「もう、五時ちょっと過ぎだよ」
「そうなんだ。今日はちょっと遅いね」
「うん」
 姉はまだ眠り足りないのか、掛け布団を口元に持ち上げたが、眠りの女神は遠い彼方へ飛び去ってしまったらしく、代わりに可愛いあくびを吐いた。「なんか、眠り足りないな」
 翼は好意的な苦笑をこぼした。
「あれだけ寝ていたのに?」
「うーん……もういっかなァ」
「またどうせ、夜には眠るでしょ? いままで寝ていたのに、まだ足りないなんて、いったいどれだけ眠れば気が済むのさ」
「一ヶ月くらい?」
 とぼける姉に弟は軽くげんこつを落とす。
「いったーい。殴らないでよっ」
 さも痛そうに殴られた部分を両手でかばう。
 その仕草があまりにもおかしくて、彼は笑って言葉を続けた。
「また眠ったら、今度は鼻をつまんで眠れなくしてやるからな!」
「今度眠ったら、そんなことじゃ起きないからねー」

 他愛もない会話だった。
 そして、そうであるからこそ、この世界でもっとも尊ぶべき時間となりえた。
 大切なもの――物質的か精神的であるかは問わない――とは、往々にしてささやかなものであるからだ。見た目が麗しく、荘厳で、金銭的価値が高いからといって、何もが尊いものになるとは限らない。
 元来見捨てられがちで、誰も彼もが簡単に出来るものこそ、この世界でもっとも価値がある。
 その代表的な光景といって良かった。
 事実関係を知るものなら、このふたりの姉弟が織りなす下らないと切り捨てても良い会話こそ、ふたりにとって重要な時間であることを熟知している。


 降雨時睡眠障害と呼ばれる奇病が世界を覆っていた。
 何の前触れもなく、健康な人間が眠りこけてしまうという不治の病。いや、不治の病であれば遙か昔からあった。この病気の奇妙な点は、患者のすべてが降雨時――雨の日に限り目覚めるという点にあった。
 ただし雨の日だからといって二十四時間起き続けるわけではない。起床する時間帯は、午前八時から午後十時まで、前後三十分の誤差があるが、すべての患者がその時間だけ眠りから覚める。数日間あめが続いた場合、上記の時間だけ起床し、それ以外の時間は健常者と同じように眠りにつく。
 原因も、治療法も、何も判っていないため、最初は患者の狂言ではないかと噂された。初期の患者の多くが、こうした世間の偏見を受け、その後、裁判で名誉を回復している。
 紺野翼の姉が降雨時睡眠障害を発病したのは、十年以上むかしになる。その頃、姉は高校に入学したてで、翼は小学校に上がってもいなかった。彼は昔から年の離れた姉に懐き、姉もまた、自分によく懐く弟を可愛く思っていた。
 翼は、発病し、眠り続ける姉を見ながら成長していった。
 雨が降れば会話を交わせるとはいえ、その期間はあまりにも限定されていた。家族に降雨時睡眠障害者がいるからといって、早退を認める学校は存在しないからだ。彼にとって学校とは、姉との邂逅を妨害する障害だった。
 彼のそうした考えを否定し、学校へ行くよう説得したのは姉だった。彼女は弟に、自分のために道を踏み外して欲しくないと考えた。常識人だった彼女は、このとき――中学二年になった弟が、姉に対し近親間では持ち得ない感情が芽生えていると言うことに、まったく気づいていなかった。弟のこぼすわがままは、姉にとって、聞き分けのない反抗期と認識されていたが、実際は、もっと生々しい感情が言わせていたのだ。
 眠り続け、雨が降るというイベントが起きない限り会話を交わせない姉に対し、翼は、児童期特有の全能感と、アニメなどの影響から、姉の病気を治すのは自分しかいないと考えた。姉には自分しかいないと論理変換されるのに、さほど時間はかからなかった。
 十年という月日、同じ思いを抱き続けた結果――それが固定化した。いや、変質した。最初に抱いていたのは家族愛からであったが、思春期を迎える内にその感情は憧れに似たものに変質し――必然の変化を迎えたのだった。
 いまの彼はそれを自覚している。そして、その思いが絶対に叶わないことも理解している。
 だからといって、姉との対話を拒もうとはしなかった。多少の決意で会わなくいられるのであれば、とうの昔に姉の部屋へ寄りつかなくなっていただろう。翼は、姉との間に精神的な絆を作りすぎていた。姉もまた、弟との関係が心地よいものであったから、それを受け入れすぎていた。
 ふたりとも、戻れぬ一線に近づきつつあるのだった。離れるには、あまりにも近づきすぎていた。


 姉との会話を楽しみながら、翼は、自分の心がどこか別の世界へ遊離してゆくのを感じた。
 その世界では、姉弟という属性をまったく無視した、ある種の到達点を描いている。もちろん、現実には到達し得ない方の未来を。
 彼は思った。このままずっと雨が降ってくれればいいのに。
 雨音が強まってゆく。屋根を叩く水滴が、ふたりの会話の間に入ろうと、その勢いを増してゆく。
 ふたりの姉弟は、そんな妨害に負けじと、つまらない会話で大切な時間を消費してゆく。そうしなければ、雨に打たれた心が、弱い部分をむき出しにして、ふたりで傷つけ合ってしまう。
 あと、三ヶ月――口調に表さなくても、会話からその話題が消え去っていた。
 あと三ヶ月で、翼と姉の年齢が交差する。
 もちろんそれは、概念上の問題でしかない。姉は一日一日と年齢を積み重ねている。実際、姉の年齢は二十六に達しているのだ。弟がその年齢を超えることはまずあり得ない。
 しかし、翼の目の前で会話を交わす姉は、何処をどう見ても十七前後でしかなかった。眠っている間は、まるで時が止まったかのように、成長していないのだった。翼にとって――そして姉にとっても、数値の年齢より見た目の年齢が重要であった。
 ふたりが無為に会話を続ける限り、近い将来やってくる到達点を、無視することが出来た。ひとりになれば、眠りにつこうとベッドに潜り込めば、どうしてもその点を考えなければならなくなった。人間、考えたくないと考えるほど、そのことだけで頭がいっぱいになってしまう。
 その日を迎えたら、ふたりは、どうなってしまうのか―――


 空疎な会話が支配する室内に、雨音が響き渡っている。






atogaki
某所(と言うべきか、やはり某所)のコンペというか、内輪ネタのあつまりというか、その場に出した掌編。テーマは「雨の日」
雨だからって悪いことばかりじゃないよね、というのが根底にあります。
まあなんというか、即興で書いたのでやたらと荒が……というか荒ばかりが……(喀血
降雨時睡眠障害という命名に異論が出ましたが、他に案がなかったのです。はい。ネーミングセンスがないので。故にそのまま。
ちなみに書き上げたのは2006年の……4月!? うっそ半年以上前じゃん。
うーん、つまり、そう言う作品なのです。

2007/1/18

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