いつも、いつだって、その大きな背中ばかり見ていた。
 手を伸ばせば届くのに――届いたと思った瞬間、気まぐれに現れた新緑の風にさらわれてしまう。
 そんな悪夢を見ないように。




「ごめんね、手伝って貰って」
「いいて、気にするな。ちょうどフェアの店の方に、見回りへ行こうと思ってたところなんだ」

 そう言って、グラッドは屈託のない笑顔を作った。
 手にした大きな紙袋の中で、パンや野菜がかさかさと同意の声を上げる。

「でも、本当はお兄ちゃんも仕事があるのに」

 隣で歩くフェアは俯いて、それから横目でグラッドの顔を見上げ、もう一度、地面に視線をおろす。何となく――何となく、グラッドの顔を見ることができない。いつも見慣れているのに、今日はどういう訳か、恥ずかしさが前面に出てしまう。
 手持ちぶさたな指を何度か絡めつつ、すぐ隣を歩くグラッドへ意識を向けた。本来なら秒間120歩という比較的早い速度で歩く彼も、隣のフェアを気にしてか、かなりゆっくり歩いている。彼にはこうした、ささやかな気遣いが出来るだけの器量があった。
 フェアは彼の気遣いを感じ取り、小さく息を吐いた。
 夕暮れが近づきつつあるトレイユに、強い西日が差し込んでいる。地面からの照り返しと、赤みを帯びた陽光が、彼女の貌に深い陰影を刻み込んでいる。まるで、彼女の気持ちを代弁しているようだった。

「無理しなくてもいいんだよ? それくらいなら、わたしだって持てるんだし」
「だから、いいって。見回りも大切な仕事なんだ。一見平和に見えるトレイユにも、小さな悪事っていうのがあってな。たいていの悪い奴っていうのは、心底悪事が得意ってわけじゃないし、たとえ得意な奴がいたとしても、人様がみている前では……というわけだ」
「そういうものなの?」
「そういうもんだ」

 それに、とグラッドは続ける。

「わずかな変化を感じ取るためには、日頃の観察が必要になる。毎日毎日、飽くことなく観察するからこそ、小さな変化に気づくことができるんだ。この場合は、犯罪の予兆ってやつだな」

 だったら、どうして気づいてくれないのだろう――グラッドの言葉に、フェアはかなり落ち込みながら頷いた。それともあれかな、同じことばかりだから気づかないのかも。たまには違う反応をしてみれば、気づいてくれるかな?
 そこまで考えて、彼女は気づかれないように頭を振った。出来るわけないと思っている。自分はそこまで器用ではない。きっと、どこかでぼろを出す。そうなったら、もう、グラッドに顔向けできない。
 しかし――
「変化、か」
「え、なんだって?」
「あ……っと、ううん。別に、夕飯をどうしようかなぁ〜って。みんな何でもよく食べてくれるからさ、何を作ってもいいんだけど」

 あわてて言葉を繕い、苦笑いを浮かべる。

「ま、あのひとたちなら新メニューでも喜んで食べるしね」

 フェアの言葉に、グラッドはおもしろそうな表情を作った。

「へぇ、リクエストを受け付けてるのか?」
「いや、あの……えっと、お兄ちゃん、何か食べたいものがあるの?」
「食べたいって言うか、俺が食べたいのは、おいしくてボリュームがあって肉がたっぷりある料理になるけど」言ってから苦笑する。「まあ野菜だって食べるぞ。好き嫌いは軍人の大敵だからな。いつだっておいしいものが食べられる訳じゃないし」
「お肉、か」

 食料庫には何があったっけ。確か穀物類や根菜類はたくさんある。果物は今日買ったけど、肉は鶏肉くらいしか残っていない。ここ最近、肉料理が大量に出ていたためだ。
 もちろん肉の仕入れを増やしているが、急には対応できない。結果、まかない用、自宅消費用の肉まで出す羽目になっていた。

「ごめん、あんまお肉ないかも」申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。「いまから買いに行けば……」

 きびすを返して雑踏に駆け込もうとしたフェアを、彼はあわてて呼び止める。

「いやいや、肉が食べられないのは残念だが、そうじゃなくて」
「じゃなくて?」

 駆け出そうとした体勢のまま、彼女は不思議そうに小首をかしげた。頭の後ろで、おおざっぱに結った髪がひと房、風に揺られる。

「新メニューの方だよ、新メニュー。作るんだろ……っていうか、もう作ってるか」
「ああ、そっちか」

 早とちりした自分を恥じて、ほおに紅葉を散らすフェア。夕焼けの赤い日差しの中でも、はっきりと見て取れるほどだった。もちろん、グラッドは気づいていない。ほおが赤いのは夕日のためだと確信している。

「新メニューで、何か案があるの?」

 ごぼれ落ちそうな翡翠のガラス玉を輝かせて、グラッドを見上げた。淡い期待が、さざ波のように胸に押し寄せてくるのをフェアは感じた。

「ああ。大食い一本勝負、三十分以内に食べられたら無料……ってのはどうだ?」
「ええー? それってグラッド兄ちゃんくらいしか喜ばないじゃん」
「そうかあ? 結構、大食いな奴はいると思うぞ」
「でも、ねえ……限定一食くらいならいいけど、そういうのに目をつけられると、ちょっと……」
「やっぱだめか……いい案だと思ったんだけどね」

 心底残念そうにグラッドは言った。
 その様子を見て、フェアは小さく毒気つく。

「ああっ! もうしかして、それで昼食代を浮かそうとか、そういうこと考えてる?」
「まさか!」

 不必要に大声で彼は言う。その声に、周囲の人々が何事かと振り返った。

「まさか本官がそのようなせこいことを……はっはっは」

 力無い笑いに、フェアは厳しい視線を寄せる。

「………」
「はっはっは。あはははは」
「………」
「はっは……はは……ごめん」
「……もう」

 じと目でグラッドをにらんでいたフェアは、やがて呆れたように息を吐いてそっぽを向いた。軽い失望が胸に広がっていることを自覚し、気分が悪くなったのだ。彼に罪はない。自分勝手な考えを抱いたのがいけないのだ、と言い聞かせる。
 けれど、秋の雨のように冷たい感情は、なかなか消えてくれなかった。さっきまで感じていた暖かな幸せも、冷雨に降られては一瞬で消えてしまう。自然と、彼女の歩幅は狭まっていった。

「でも、フェアが作る料理は何でもおいしいからな。大盛りで死ぬほど食べられたら、ほんと、幸せだろうなあ……」

 ――まったく、なんて安い女なんだろう。
 フェアはそんな自分の性格を苦々しく思いながら、けれどほおの緩みを止めることが出来なかった。朝霧のように広がっていた失望感は、彼の笑顔に照らされることにより消失し、ふたたび心が温かくなっていた。
 たったひと言で。ひと言で、人間はこんなにも幸福でいられる。
 だから、こんなことを言ってしまう。

「いいよ」
「え?」

 狐に摘まれたような表情で、グラッドは振り返る。
 いつの間にか、フェアの半歩先を歩いていた。

「大盛り、採用してみる。さすがに無料……とはかないけどね」
「おお、おお! さすがフェアだ。フェアが妹でよかったよ」
「……もう」

 妹、という言葉に多少の引っかかりを覚えたが、喜色満面のグラッドを前に、あえて目をつむった。たしかに、いまは妹かもしれないけれど――でも、いつかは、妹なんて言わせなくしてあげるんだからね。
 小さな誓いを小さな胸に込めて、フェアは小さく意気込む。半歩先にいるグラッドに並ぼうとして――代わりに彼を促した。

「さあさあ、そうと決まったら、準備しなくちゃ。グラッド兄ちゃん、よろしく頼むよ?」
「ああまかせとけ。フェアの頼みだからな、泥船に乗ったつもりでいてくれ」
「うわ、お約束、お約束!」
「俺も最近、お約束の大切さがわかってきたよ」

 と、ふたりして笑って。
 微妙な距離を保ったまま歩き出した。その距離の意味を、グラッドは知らない。だから会話を交わすたび、後ろを振り返る。笑顔で受け答えするフェアを、当たり前のように思っている。
『忘れじの面影亭』へ向かう道。
 他愛のない言葉を交わすたびに、見慣れた笑顔を見るたびに、幸福に包まれてゆく自分をフェアは実感した。
 そして――

「ん? どうしたんだ?」

 振り返ったグラッドは、フェアの様子の変化に気づき声をかける。

「えっ? んーん、なんでもないよ」
「ふうん……そうか」

 疑問を抱きつつ、彼はあえてそれを飲み込んだ。
 このくらいの年頃なら、ひとつやふたつ、秘密はあるんだろう。ま、難しい年頃だからな……言葉にせずつぶやくと、視線を前に戻す。
 フェアは安堵に胸をなで下ろした。ささやかな秘密がばれていないと知って、深く息を吐く。

 長い長いふたりの影法師――その先で、手と手がしっかりと結ばれている光景に。

 たったそれだけで指先が熱くなった。直に触れているわけではないのに、そこからグラッドの体温が伝わってくるかのようだった。左手だけが汗をかいて、湿っている。
 汗でにじんだ手を握りしめ、祈りのような言葉を紡いだ。
 それは冷涼な夜の息吹にさらわれて、誰にも届かない。口唇を離れた瞬間、螺旋を描いて空へと昇り、夜のしじまに消えてしまう。

「いつか」

 半歩先をゆくグラッドの背中を見つめながら。

「いつか、隣に並んでも恥ずかしくないくらい、成長するから――だから、そのときは……」

 肩寄せ合って歩こう。と、彼女は言った。もちろん、手はしっかりとつないで。 
 稜線に沿って空が赤く燃えていた。天球を覆い尽くそうと比翼を伸ばす闇を、かがり火を焚いて追い払おうとしているようだった。フェアの遙か頭上では、いくつもの星が煌めき、モノクロームの世界に淡い色彩を散らしている。通りに沿って建てられた家々から、優しい暖色の光がこぼれ始めていた。
 もういくらもしないうちに、町は夜に包まれる。
 その前に、その前に――
 のばしかけた手を引っ込めて、彼女は、そっと彼の影に手を重ねる。




 届かないと思っていたグラッドの大きな背中。
 けれど、夕日が差し出す影法師があれば届くのだと知って、彼女は小さく微笑った。


owari

atogaki
グラフェア(フェアグラ)が人気らしいので速攻で書こうと思ったら、二週間もかかった難産な作。その分思い入れも……強ければいいのだが。どうもありふれたストーリーなので、にんともかんとも……
本当は12月の内に書けていたのにネー。
乙女ちっくなフェアははたしてどうなのだろう、と書きながら考えていたが、結局そのまま採用。ゲームではもっと、さばさばというか、竹を割ったというか、ひと言々々反応しないような印象を抱いていたので。
何というか、悔いの残る作品ではあります。精進したいです。

2007/1/18

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