「あっ、セイロ……んんっ」
 振り返ったフェアの唇を強引に押さえたセイロンは、振り解こうとする彼女の手を掴み、空いた手で後頭部を支えた。優しさよりも野性味を感じさせるキスをしたまま、彼女の身体を壁の方へ押しやる。とん、とフェアの背中が壁を叩いた。セイロンの腕の中でもがいていた彼女は、やがてチョコレートのように甘く吐息をこぼす。
 三十秒ほどフェアのかわいらしい唇をもてあそんだあとで、セイロンはようやく彼女を解放した。顔には悪戯っぽい笑みが浮かび、手にした扇子を広げて口元を隠している。
 顔の真っ赤に染めたフェアは、かすかに糸の引いた唇を手のひらで押さえると、混乱した口調で叫ぶ。
「ひ、ひきなりなにするのよっ!!」
「いやなに、店主殿の後ろ姿を見ていたら、つい……な。あっはっはっは」
「ついでって……いきなりなんてないよ……」
 口調は激しかったが、しかし心から批判しているようではなかった。大きく見開かれたガラス玉には、羞恥とともに喜びに近い何かが浮かんでいた。セイロンを見上げていた視線も、どことなく虚空を彷徨い、安定しない。
 そんな彼女の様子に、セイロンは笑みを深くする。と同時に、彼女に対する思慕の念がふくらんでいった。
 フェアの頬に差した赤みをみるにつれ、嗜虐的な心が鎌首をもたげ始める。扇子で隠された口元に三日月を作ると、仰々しく腰を折り、言った。
「判った。ではこれからは、店主殿の許可を得てからすることにしよう」
「もう、セイロン!」
 かしこまった彼に向けてそう言い放つと、フェアは店の奥に隠れてしまった。その後ろ姿を彼は見つめる。おそらく料理の下準備などをするつもりだろう。人気店へと成長した〈忘れじの面影亭〉には、自由に扱える時間が少ない。片手間にでも仕込みなどを行わなければならないのだ。
 彼は自分でも気づかないうちにため息をついた。さっきまでの溢れる陽気はどこかへと消え去り、哀惜のにじんだ息が浮かぶ。
 さっきの接吻にしてもそう――仕事にいそしんだまま、フェアとセイロンとの逢瀬は日を追うごとに短くなっている。まるで季節を一巡する太陽のように、夏が終わろうとしているのかもしれない。
 馬鹿な、とセイロンはかぶりを振った。そんなこと、あるはずがないと思っている。しかし同時に、彼の内部に育つ冷静な部分が、自身の願望を否定していることにも気づいている。
 あの日以来のふたりの関係が、徐々に違う物になっていることを自覚し、彼は哀しいとも寂しいともつかない感情に襲われた。永遠にも思えた一瞬、永久の春は姿を消し、静寂をしもべとする冬が近づいている。
 フェアの消えた調理場を追っていた彼は、やがて彼らしい自嘲を漏らすと、街に足を向けた。室内の暖かさが、消えようとする春のそれに思えてならなかった。



 凍えるような疾風が、街を通り抜ける。
 冬。ありとあらゆるものが凍り付く季節。空に浮かぶ雲さえ凍り付き、トレイユの上空は澄み渡る青が支配する。
 ふと見上げた空が、どういう訳か心に染みて、セイロンはわずかに顔をしかめた。気分を変えようと装飾が施された街に視線を降ろす。そこには、寒さなど物ともしない暖かさが満ちあふれていた。
 過剰とも思える装飾に疑問を抱いた彼だったが、今日が何の日であるかを思い出し、頷く。
「そうか……今日は、バレンタインデーであったか」
 リィンバウム独自の風習に詳しくない彼にとって、バレンタインデーはロマンチズムを感じさせるものだった。女性が意中の男性へ贈り物をする――要約すればたったそれだけのことなのに、不思議と心が高揚してしまうのは、バレンタインデーも持つ魔力なのかも知れない。
 所々に昇り旗が掲げられ、街で一番おいしいチョコを扱っていると、あるいはもっとも効果のあるチョコをあつかっていると、盛んに宣伝している。もちろん、そうした店のチョコレートを活用するのは、多くの男性に義理を売り渡したい不束者だけであり、良識溢れる女性は見向きもしない。必要な材料だけ取りそろえると、そそくさと自宅に戻ってしまう。
 踏みしめられて、わずかに融解した轍を進むセイロンは、白い息を吐き出した。特に買う物もない。行く当てもない。結果、平日の昼間から街を散歩する贅沢を彼は味わっている。
 どこもかしこも雪化粧の施された道を進ながら、こんな風に街を歩くのはいつぶりだろうと思った。そしてすぐに、フェアとのデートを思い出し、貫かれるような痛みが心を襲う。助けを求めるように隣を振り向き、傷口を深くする。
 一瞬、セイロンはひとりで歩いていることを失念していた。すぐ側にフェアがいるという事実に、安住していたのだった。
 かすかな眩暈を感じ、彼はひとり立ち尽くす。大通りからすこし外れた小径、雪深い道の真ん中で、朱を掃く着物が天を仰ぐ。我はこんなにも弱い生き物であったか――絶望の暗黒が胸に広がった。
 物理的な弱さについてではない。
 フェアがいないという事実に対する、抵抗力のなさを呪った。殺意さえ感じられる呪い。
 癇癪がはじけそうになるのをぐっと堪え、まぶたを落とした。深く息を吸う。冷たい空気と一緒に、雪の粉が杯に入った。
 自問する。自分にとってフェアとはどういう存在なのか。いなければならないのか、いなくてもかまわないのか――幾千もの考えが浮かび、その度に、彼女の笑顔が脳裏をかすめる。
「結局、そう言うことなのか」
 自嘲するように呟く。吐き出した息は、自分でも驚くほど暑く煮えたぎっていた。知らず知らずのうちに、自分で逆鱗に触れていたのだった。
 頃合いなのか、彼は思った。自分が何故ここにいるのかを彼は思い出していた。
 ――そう、自分には役目がある。



 怒濤の勢いでやって来る客を捌ききったあと、店内には場違いな音色が訪れる。
 食器同士のこすれる音、床を踏むブーツの音、テーブルや椅子をずらす音、それ以外には何もない。一日の終わりを奏でる、後かたづけという名の音楽会。片手にひと山ほどの食器を持ったセイロンが、洗い場にそれを送れば、てきぱきと効率よくフェアが洗い物を済ませる。その間に、セイロンは自慢の力でテーブルのずれを直し、汚れを拭き取り、椅子を立てかける。洗い終わった食器は種類ごと戸棚にしまわれ、フライパンや鍋などに薄く油をひく。
 三十分ほどで店をたたみ終えると、セイロンは一カ所だけ残していた椅子に腰掛ける。そのタイミングを見越していたように、かぐわしい湯気を放つカップをフェアが持ってくる。
「お疲れ様」
 と言って、笑う。自分も疲れているはずなのに、そうした仕草は微塵も見せない。
「ありがとう」
 セイロンも笑ってカップを受け取り、ひと口すすった。疲れた身体にカフェインは良く効く。舌が焼けるように熱く、喉に絡まるような濃いコーヒーなら尚更だった。
 フェアも椅子に腰掛けると、ふぅふぅと息を吹きかけてからカップに口を付けた。小柄な彼女の喉が、何度が胎動し、嚥下してゆく。
 彼は、カップの縁からそっと、彼女を見やった。どう切り出した物か、と内心考えている。
「今日もお客さん多かったね」
「あ、ああ。そうだな」
「バレンタインデーなのにねぇー」
「まあ。いつであっても腹は減るだろう」
「そうだけどね」
 苦笑して、彼女はまたカップに口を付ける。白磁のカップに、薄紅の唇。
 何を見ているのだ、我は……。彼は自責に近い感情を受け、決意した。
「それはそうと、店主よ」
「ん?」
「話が、あるのだが」
「あっ、いや……ちょっと待って!」
 だが、彼の決意は鼻先で折られた。セイロンの言葉を受けて彼女はあわてて立ち上がると、店の奥に向かった。
 何事かと呆然とするセイロンが立ち直る前に、フェアは息を切らせながら戻ってきた。小さな手には綺麗に包装された小包が握られている。彼は不思議そうにそれを見やり、フェアを向いた。何故だか判らないが、彼女の頬が紅いことに気づく。
「これ……その、バレンタインデーで……っちょ、チョコを作ったから………貰って!!」
 ずい、と小包を押し出される。彼女から発する気迫に身じろぎしながら受け取った。
「あ、うむ。ではありがたく」
「……うん」
 らしくないフェアの態度に彼は戸惑ったが、彼女の言葉に中に引っかかる部分を見つけた。
 バレンタインデー。
 そうか。彼は納得したような表情を作った。女性が思い人にチョコレートを贈る日。それが手作りであり、なおかつ心がこもっていればいるほど、愛情の強さを現すという日。まさか自分にもあるとは思っていなかったセイロンは、わずかに面食らった。確かあれは、結ばれていない男女間で贈るのではなかったのか。いやもしかしたら、自分も認識が間違っていたのかも知れない。
「つかぬ事を聞くが」
 ふと思いついたことを、そのまま口にする。
 フェアは両手の指を何度か絡めながら、もじもじとしている。
「うん?」
「手作りなのか?」
「………!」
 頭の上から湯気が飛び出るほど、彼女は顔を赤くする。
 その反応で、すべてが判った。訳もなく笑い出しそうになる。
 しかし、フェアの初々しい反応を前に、さすがにそこまではよそうと彼は思った。
「ありがとう」
 だから彼は、心から――本当に心の底から感謝の言葉を述べる。
「い、いいってそんな」
 不意に、自分を見上げるフェアを滅茶苦茶にしたい欲求にかられた彼は、彼女の下顎をつまんで引き上げると、戸惑う声を唇で押さえた。今度はフェアも嫌がらなかった。腰を曲げてもまだ背の高いセイロンにあわせようと、つま先で立って彼の肩に手をかけた。そのまま首の後ろに腕を回して抱きつく。セイロンは片手で彼女の腰を抱くと、彼女の唇にかみついた。
 長い――永遠を思わせる静寂が店内に満ちた。
 恋の天使も裸足で逃げ出すふたりの周りを、優しく包み込む。
 何度か軽い悲鳴が上がった。唇や鼻にかみつきながらキスを繰り返す内に、ふたりの顔は唾液でべとべとになってしまう。名残惜しそうに離れたふたりの間に、数本の糸が引いた。
「いきなりなんだから」
 泣き出しそうな笑顔でフェアが言った。
「許可は貰ったはずだが?」
 いけしゃあしゃあと言ってのけるセイロンは、受け取ったチョコレートを掲げると、さわやかすぎる笑顔を作る。

 昼間、さんざん悩み抜いた考えは、彼女とキスしている内に消え去り、あとにはフェアへの思慕だけが残った。
 嬉しいような、すねているようなフェアを見ている内に、これでいいのだという確信が彼の中に広がってゆく。
 だから――彼は言葉にせず言った。それは誓いだった。我はここにいる。ここで、そなたと共にいる、と………




 その夜、フェアがいつも以上に可愛かったことを、セイロンはずっと忘れない。






atogaki
特に書くこともない。
突発的に思いついて、そのまま書く。いつものように後半で失速という。
まあお酒の勢いを借りたわけですが(爆

キスシーンには1KB以上書くべし、との言葉を守ろうかと思ったが、無理。キスでそんなに書けないよ。
ですので、まあいいや、と妥協。

それにしてもセイロン・・・こんなにエロくていいんだろうか。ファンから殺されそうだな。

2007/2/16

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