花には水を、人には愛を




 目一杯の愛情を水に溶かし込んで、ミントは今日も、菜園を彩る緑に水をまく。
 朝の清涼な風。かすかに肌寒さを感じさせる、初夏の日差しの中で、放物線を描く水しぶきが七色に輝いた。光を求めて天高く成長する葉の上を、大粒の雫がからかうように滑ってゆく。その度、くすぐったい感覚から逃れようと枝葉が小さくふるえた。そんな植物たちに、彼女はいつも、笑顔と挨拶を忘れない。
「おはよう、みんな。今日も好い日になりそうね……」
 あるいはそこに、もうひとつの太陽が生まれたのかも知れなかった。万物の支配者たる空のそれではなく、あらゆる厄災から彼らを保護する、豊饒と守護の太陽。
 世界にとけ込んでしまうような、鮮やかな緑の衣に身を包んだミントは、水差しを片手に植物のひとつひとつを見て回る。何かおかしな点はないか、成長の遅れている株はないか、病気は、あるいは……エトセトラエトセトラ。丹念に丁寧に、まるで自らの子を慈しむように、ミントは植物たちと向き合う。
 彼女の足下では、大きなゴーグルを付けた召喚獣が、水差しを掲げながらとてとてと駆けずり回っている。ミントお気に入りの召喚獣、オヤカタだ。彼もまた、主の手伝いをするために、菜園を駆け回っているのだった。危なっかしい――けれど、充分に慣れている――手つきで水をやり、植物の状態を観察する。ミントにとって頼もしくも可愛いパートナーだった。
 オヤカタの様子を視界の端に捉えると、彼女は羽毛のように柔らかく微笑む。ふわり、と、まるで天使の羽が舞い降りてきたかのように。彼なりに一所懸命仕事をしているのだが、傍目から見ると、どうしても微笑ましさが顔を覗かせる。見上げれば、無窮の空に掃かれた蒼々と、天使の白い羽根。
 その鮮烈なコントラストに、ミントはふと、疑問を抱いた。
「……あら? 羽根が」
 ひとつふたつと、穏やかな風の中で気まぐれな軌跡を描きつつ、ゆっくりと空から降りてくる。彼女は手のひらを空へ向けると、一葉の羽根を受け止めた。雪花石膏(アラバスター)細工を思わせる手の中で、手にしたそれは淡い燐光を放ち、そしてぬくもりを有していた。ミントは小首をかしげると、再び空へ視線を送る。
「あっ」
 その先――蒼穹の中の一点に、彼女は見知った人物を見つけた。
 ミントは合点がいった表情を作ると、手のひらの羽根を折らないように指を折り、左手にした水差しを近くの台に置く。
「リビエルちゃん」
 空に向かって、彼女は言った。大きく手を振る。気持ちの良さそうに空を飛んでいたリビエルに、ミントの声が届いたのだろう、視線をミントに向けるとゆっくりと旋回し、滑降に入る。着地の間際、背中の小さな翼を羽ばたかせ、埃さえ舞い散らさないほど静かな登場を見せた。ずれた眼鏡を指で押し戻す。
「おはようございますですわ」
 と言って、リビエルは笑みを掃く。
 喜怒哀楽の乏しい天使ではないが、フェアやリシェルなどに比べると、よっぽど表情に差がない。生真面目な、どことなく緊張感の取れない雰囲気を、その比翼に纏わせている。
「おはよう」ミントも笑顔で応じた。手のひらに収まった羽根をリビエルに見せる。「これ、空から落ちてきたから」
「あ、本当ですね。抜け羽にはいつも、気を付けているんですが」
「天使の羽根も、抜けてしまうの?」
「ええ。成長しますから、天使も。その過程で、どうしても古くなった羽根が抜けてしまうんです」
 まあ春先の猫みたいにとまではいきませんが。そう言って、リビエルは苦笑いを浮かべた。
「それじゃあこれ、返しても仕方がなさそうね」
 ミントは手にした羽根を見下ろし、困ったようにつぶやく。
 蒼の派閥の召喚師である彼女は、異なる世界の理に詳しい。しかし、すべての世界に精通しているわけではない。名もなき世界のことや、サプレス、ロレイラル、シルターン、あるいは作られた側から消えてゆく千万の組織など。判らないことはたくさんある。
 そんな彼女に、リビエルは「いいんです」とかぶりを振った。
「また生えてきますし……なんなら、部屋の飾りにでも。鳥の羽根とは違って朽ちませんから」
「そう?」
 ミントは手にした羽根を太陽に透かしてみた。まるで――白銀がまかれたように、世界のすべてが輝いているように見えた。湿り気を帯びた風が通り抜けるたび、屈折した光が万華鏡のように模様を変化させる。意識せず、彼女のほおが赤みを帯びる。声にならない声が口唇からこぼれ落ちた。
「きれい……」
 その言葉が、まるで自分に向けられているように感じて、リビエルは居心地が悪そうな表情を作る。何度か指を絡ませ、何かに見惚れるミントから視線をはずした。決して不快ではない感情がリビエルの心を満たしていた。
 やがて、ひとときの逢瀬を愉しんだミントは視線をリビエルに向ける。
「本当に貰っても良かった?」
「はい。どうぞ」
「それじゃあ、お言葉に甘えちゃうわね」ミントはとても嬉しそうに笑った。
 彼女の足下で、もう一葉の羽根を手にしたオヤカタが、むいむいと水やりを終えたことを告げていた。



 昼前。
 ミントの足取りは軽やかだった。リビエルから受け取った――というより拾った翼が、彼女の質量を空の彼方へ連れ去ってしまったかのようだった。わずかに汗ばむ日差しの下、手にしたバスケットがゆっくりと上下する。梢が作る日陰の回廊を、彼女はあせる気持ちを抑えながら歩いていた。
 行き先は私塾。そこで教鞭を執っているセクターを、昼食に誘おうと思っている。いきなり押しかけては迷惑かも知れない、と彼女は思ったが、こうでもしなければ彼は付き合ってくれないのだ。仕方がないのだと自分に言い聞かせる。
 しばらく進むと、遠くから、子供たちの甲高い声が響いてきた。それに被さるようにして、セクターの優しい低音が彼女の耳朶をふるわせる。自然と彼女の表情は和らいだ。どこか、安心している自分がいた。
「セクターさん、まだいるんだ」
 その事実に、彼女は胸の詰まる思いを抱いた。
 子供と、彼の声が次第に大きくなってゆく。その度に、彼女の中で暖かい何かが膨れあがってゆくのを感じた。
「こらこら、あまり大通りに出ては行けないよ。あとそれから、先生だからって全力でボールをぶつけられてもな」
 声の調子から、どうやら外で運動をしているらしい。
 やんちゃ盛りを相手に、彼もきっと苦労しているのだろうと思い、ミントは何とも言えない苦笑を浮かべた。
 その時だった。彼女の視線の先で、一個のボールが飛び出してきたかと思うと、二度三度と地面の凹凸にぶつかって跳ね上り、ちょうど、ミントの足先でその動きを止めた。こつんと緑のボールがつま先に触れる。
 仕方がないわね、と呟くと、膝を折ってボールを拾った。
「やれやれ、まったく……あっ……」
 ――その言葉はまるで魔法のように。S極とN極が磁力で引かれ合うように当たり前に。
 ボールを追って出てきたセクターと屈んだままのミントの視線が、宙空で絡み合った。
 一瞬、世界の分子運動が停止したかのような静寂に包まれたあと、大きく見開かれた瞳の中で、セクターが柔和な笑みを作った。
「こんにちは、ミントさん」
 視線はわずかにそらされた。
「こんにちは」
 それでも、彼女は笑顔で応じた。
「大変ですね、こう、元気がいいと」言って、ボールを差し出す。
「まあ慣れていることですから。それに、元気がないより、有り余る方がよいと私は考えます」
「そうですね」
 セクターは腕を伸ばしボールを受け取る。
「座学も良いのですが、やはり子供たちは、外で遊ぶ方を好みますね。いっそのこと、青空教室でも開いてみたら、あの子たちの勉強もはかどるんじゃないか……なんて考えてしまいます」
「やはりお外に出た方が気持ちがいいですしね。まあ、これからの季節、暑くなってきますけど」
「ははは。まったくですね」
 完全な事務的対応だった。それではと、彼は一礼する。
「これからまだ、授業がありますので」
「ねえ、セクターさん」
 踵を返そうとした彼の背中に、ミントは声をかけた。さん≠フ言葉を、ことさら強調して。
「何でしょう?」
 身体の半分だけ振り返ったセクターは、変わらぬ声で問い返した。
「お昼はまだでしたか?」
 彼女は手にしたバスケットを持ち上げた。中には、菜園で取れた新鮮な野菜をたっぷり使った、サンドウィッチが入っている。菜園での水まきが終わったあとに作ったのだ。
「まだでしたら、水道橋公園でご一緒にと思いまして」
「お気持ちは嬉しいのですが」一度、バスケットへ見たセクターは、薄く渋い顔を浮かべて答えた。「まだ子供たちと……」
「せんせー! ……ってああ、ミントお姉ちゃん!!」
 彼の言葉は、しかし覆い被さるように響いた子供たちの声にかき消された。セクターは今度こそ苦笑いを浮かべて振り返る。
 数名の子供が、なかなか戻ってこないセクターを呼ぼうとやって来たところ、彼の後ろに立つミントの姿を認め、叫んだのだった。立ち尽くすふたりの元へ、子供たちが駆け寄ってくる。
「こんにちは、みんな」
 腰をかがめて視線を降ろすと、ミントは笑顔を作った。
「こんにちわー」と、大勢の声がわき上がる。何人もの子供たちが彼女の囲うよう輪を作り、話しかけてくる。その中に、かつて白眼視されていた獣人の子供たちが混ざっていることに、彼女は気づいた。
 セクターがそれを察して説明する。
「まあ、問題がないわけではありませんが」その言葉には、様々な障害があったことを実感させる響きがあった。「彼らもまた、教育の機会に恵まれても良いでしょう。ここの塾は自費でまかなっているわけですし」
「ご苦労なされたのですね」
「いまとなっては、良い思い出かも知れません」
 ふたりして笑う。他愛のない笑いだった。確かに、子供たちの幸せが事実この場に存在するのならば、多少の障害はむしろ装飾品として取り扱うべき物なのかも知れない。
 闇夜の中で満月が輝くように、あるいは鳥が優雅な羽ばたきで空を飛ぶように。もちろん真昼の明るさの中であっても、子供たちの笑顔は一掬たりとも価値を減じない。
 彼女の足下で、好奇心の塊が、ひとつの質問をミントにぶつける。
「ミントお姉ちゃん何しに来たの?」
「来たの?」
「うんとね、先生を、お食事に誘おうと」
「ご飯?」
「そうよ。公園に行って……」
 ミントの言葉に、子供たちは瞳を輝かせた。
「わたしもっ!」
「僕も!!」
 途端、大騒ぎとなった。波と波が干渉し合って大きく膨れあがるように、子供たちの声もまた大きくなってゆく。ミントやセクターの服の端をひっつかむと、星屑をまいた瞳でふたりを見上げてくる。――この目に、大人は弱い。諦めさせることもなだめることも出来なくなったふたりは、不意に視線を合わせると、大きなため息をひとつ吐いた。
「仕方ありませんね」
 セクターの言葉に、ミントは頷く。
 周りで騒ぎ出す、小さくかわいらしい天使たちに向かい、彼女は言った。
「それじゃあ、みんなでピクニックに行きましょう」






 セクターとミントは私塾の子供たちを引率し、水道橋公園までやってくると、手近な木陰にシートを敷いた。その上に、彼女が持ってきたサンドウィッチと、子供たちが各自家から持ってきた昼食が並べられる。
 三々五々座った子供たちは、物珍しげに他の家の料理を眺めている。いまにも飛びつきそうな子供を認めると、セクターは小さく苦笑した。
「それでは、いただくとしよう」
「いただきまーす」
「いただきます」
 料理の種類は、突発的に開かれたピクニックにしては豊富だと言えた。わざわざ揚げ物を持たせた家もある。あるいは逆に、朝食の残りで何とかごまかそうと苦心を重ねた一品もあった。
 もちろんすべての料理はバラバラに並べられ、どれが何処の家の料理か、判らなくなっている。このあたりの配慮は、さすが教師だと言えた。子供たちは、料理の質ですら競争の対象とする。それを防ぐための行為だった。
 ミントは手近にあったサンドウィッチを頬張りながら、ちらりとセクターをのぞき見る。子供たちと談笑する彼の姿は、本当に楽しそうで、そして教育者の義務に燃えているようだった。
 戦場で垣間見せる、あの鋭利な刃物を思わせる雰囲気は微塵も感じられない。まるで戦場での彼は、偽りで塗り固められた伝説のように、すべては胡蝶の夢のように、遠いまぼろし。
 幻。
 偏光迷彩。
 ……そんなことを彼女は思った。光の反射を利用して、姿形を見えなくするロレイラルの超技術。だとしたら、いまこの場にいる彼も、本当の自分を見せないためのカモフラージュなのだろうか。笑顔は憤怒を、優しさは悲しみを、暖かさは冷たさを、覆い隠すための仮面。
 そうだとしたのなら、彼の素顔は何処にあるのだろう――いつか、仮面を外すときが来るのだろうか。
 判らない。彼女は心にわずかな翳を作った。何より判らないのは、彼が仮面を外したあと、どんな接し方をすればいいのかが。優しく触れ合えばいいのか、ただ優しければいいのか……――
「なんでしょう? ミントさん」
「えっ……と」
 突然の問いかけに、翼を広げた心を呼び戻すと、一瞬だけ逡巡する表情を作る。どうやら、さっきからずっと、セクターを見つめていたらしいことに気づき、彼女は頬を紅く染めた。
 さりげない視線であたりを見回し、彼がまだ料理に手を付けていないことに気づいた。
「食べられないのですか?」
「私ですか? 私は最後でいいんです。この子たちが」言って、美味しそうにパンを頬張る子供たちを見回す。「おなか一杯になったあと、その残りで」
「ええー? 先生、食べてくれないの?」
 子供のひとりが不満を挙げた。
 何人かが同意の声を漏らす。
「そんなことはないよ。みんながおなか一杯になったら」
「じゃあコレ!」
 と、彼の前に一切れのサンドウィッチがにょきっと現れた。
「あたし、もうおなか一杯だから」
 白い体毛で覆われた獣人の子供が、笑顔で差し出したのだ。二本の大きな耳が、ぴょこぴょことリズミカルに揺れている。ルビーの原石がはめ込まれた大きな瞳が、彼の心をのぞき込んでいる。
 それに連れられて、他の子供たちもセクターの前に様々な料理を持ってきた。たちまち、彼の周りに料理が溢れた。
 こうなっては、セクターも苦笑するしかない。
「ははは。いっぺんに出されても、全部は食べきれないよ」
 いくつかの料理をついばみながら、彼は子供たちの相手をする羽目になた。パンを頬張れば唐揚げが、唐揚げを平らげると今度はリンゴが、と言った具合に。あちらこちらから伸びる小さな手に翻弄される彼を見て、とうとうミントは吹き出してしまった。
「笑わないでくださいよ、ミントさん」
「すいません、つい」
 しかし彼の口調は穏やかだった。口端がゆっくりと持ち上がり、かすかに笑みを形作る。
「ミントさんも食が進んでいないようですね?」
「……え?」
 手元に視線を落とせば、先ほどかじったサンドウィッチが、まだ残っている。考え事をしていたせいで、ほとんど食べていなかったのだ。
「いえ、そんなことは……あ」
 その言葉がセクターのちょっとした仕返しだと気づいたとき、彼女の周りにワっと子供たちが駆け寄った。一斉に食べ物が差し出される。
 きらきらと、初夏の陽光を反射させる、無数の瞳。
 ミントは素直に敗北を認めると、セクターを見る。彼は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「美味しい料理ですからね」
 と、彼女は言った。
「はい。まったくですね」
 と、セクターも応じる。

 ――結局ふたりは、子供たちが差し出す料理を、片っ端から胃に収めなければならなくなった。



 空の坂道を駆け上がっていた太陽が、やがてその下り坂に差し掛かった頃、ふたりは木陰に腰を落ち着けていた。子供たちは、緑の絨毯の上で駆けずり回って遊んでいる。追い抜いては追い返し、また追い抜いては追い返す。駆けっこと鬼ごっこを合わせたような遊びをしていた。
 あまり遠くへ行くんじゃないぞ、というセクターの言葉は、いまだその効力を発揮しているようだった。誰も木立の中に入ろうとしないし、池に足を踏み入れる子供もいない。暑さを物ともしない元気の良さに、大人たちはかすかな羨望を込めた視線を向けた。
 水道橋からこぼれる水が湖面を打つたび、細かく砕けた水しぶきが風に乗り、ミントの頬に張り付いてゆく。木陰の中にいて、その冷たい感覚はとても気持ちがいい。食べ過ぎてふくれてしまったおなかを気遣いながら、ゆっくりと湿り気を含んだ風を吸う。
 子供たちを眩しそうに見つめていたセクターが、不意に口を開いた。
「子供たちの一体何処に、あんな元気が隠されているんでしょうね」
 その問いに、彼女は考え込むように指先を見つめると、遠い――と言っても十年かそこらの――昔を思い出しながら答えた。
「全身から、ですね。……もう十年、たった十年前は、わたしもあの子たちのように、元気で溢れていたと思います」
「ミントさんが、ですか? それはなかなか、想像できませんね」
「はい、よく言われます」彼女は微笑んだ。「と言っても、リシェルやフェアみたいな元気の良さじゃなくて……そうですね、お料理やお裁縫に、励んでいましたよ」
「それがいまに結実している……と。だからあんなにサンドウィッチが美味しい」
「サンドウィッチは誰が作っても失敗しませんから」
 ミントはあえて、ひねくれた答えを返した。
 セクターとの他愛のない会話を、一秒でも長く続けていたかったから。それだけで、彼をこの世界につなぎ止めることが出来ると、信じることが出来る。そんな根拠のない考えは、胸の内にくすぶる感情の薪となって、次第に膨れあがってゆく。
「私が作っても大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。何なら、わたしと一緒に、作ってみてはどうでしょう」
「ははは。機会があれば、子供たちのために、作ってあげたい物ですね」
「はい……」
 途端、言葉に出来ない不安が彼女を襲った。みるみるうちに、秋晴れのように澄んでいたミントの心が曇ってゆく。積乱雲を思わせる分厚い不安は、口内炎のような疼痛を心に降らせた。
 胸が痛くて、どうしようもなく切なくなって、彼女はうつむいた。絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……ごめんなさい、セクター先生」
 ――現れたのは、恐怖だった。
 期待と不安。
 誰もが併せ持つアンビバレンスが、次第に彼女の心の杯を空想で満たし、現実に溢れ出してしまうという――恐怖。
 彼女の全身を循環する紅い空想が吹き出てこないように、自ら現実という冷水を全身に浴びる。
「どうしたんです? いきなり」
「だって、突然のピクニック、ご迷惑だったかと」
「そんなことはありませんよ」
 セクターは、おそらくミントの心情の変化に気づきながら、あえてそれを無視した。諭すような口調で言う。
「子供たちも、普段とは違う刺激を求めていましたからね。ちょうど良かったです。むしろ、感謝しなければいけない」
「そんな、感謝だなんて」ミントは頬に紅葉を散らすと、うつむいた。ふたたび空想の芽が鎌首をもたげる。「わたしはただ、我が儘で迷惑をかけたか心配で」
「だったら、心配無用ですよ、ミントさん」
 彼女はじっ……と、セクターの目を見た。彼は目をそらさなかった。瞳の奥――水晶体よりも奥深くで回る歯車が、彼女の顔に焦点を合わせる。
 機械仕掛けのそれに、生気などあるはずがないのに、不思議と暖かい感情に満ちているようで。
 彼女は微笑った。心から、たたひとり想いを向ける相手にだけ見せる、安らかな笑顔を。
「ふふ。それでは、その言葉をありがたく頂きますね」
 それからしばらく、沈黙が訪れた。巨人の手により静寂の帳が降ろされると、駆け抜ける風がそれを見越したように、群雲を運んできた。光がまかれた芝生の上に、雲は身勝手にも光を追い払い影のステージを作ると、梢にコーラスを頼み、主役の登場を待つ。
 歓声を上げながら駆け回っていた子供たちが、めざとく舞台を見つけると、我先にと影を追った。
 ふたりは、視線だけでその姿を追う。
 近づけたのかも知れないと彼女は思った。ただ一度の逢瀬で縮まる距離ではないけれど、それを幾星霜と繰り返した後――数さえ無意味になるほどのふれあいの先が、今日、見えたような気がしたのだ。
「セクターさん」
 何度、その言葉を反駁したことだろう。
「なんでしょう?」
 ゆっくりと振り返る彼の顔を、何度、心に写し取ったことだろう。
「セクターさんは、これから、どうするおつもりですか?」
 決して逃れ得ぬ未来という名の道程。生きとし生けるものすべてが、打ち込まれた過去という楔を引きずりながら、未来に向かって生きてゆく。
 だが、彼にはそれがない。かつてあってそれは、もう、自身の手で解き放ってしまった。
 ――復讐。
 優しい彼には似合わない剣呑な言葉。
「私は、本当の教師ではありませんが……しかし、いまは本当の教師にも負けない自信があります。……いえ、自信だけなら昔からあったのかも知れません。それに気づいていないだけで、あるいは、気づきたくなかっただけで」
 ミントは静かに、セクターの独白に耳を傾けていた。彼の言葉には不思議と、聴衆を呼び込む蠱惑的な響きがある。
「あの子たちを見てください。それから、フェアくん、リシェルくん、ルシアンくん……他の卒業生たちも、みな元気で、そして真っ直ぐ成長しています。そして彼女たちは私にこう言うのです。先生のおかげだよ――と。私は、教え子たちに救われました」そこで言葉を切り、ちらりとミントを見た。もちろんあなたちにも、という言葉を含めた視線で。「そして、ならば、彼女らのために生きようと、思いました」
「花には水が必要なように?」
 水をやらねば花は枯れてしまう。
 彼がいなければ――子供たちはどうなってしまうのか。
 セクターは恥ずかしそうな表情を作り、しかし、しっかりと頷いた。
「ならわたしは、花が折れないように添え木をしましょう。たっぷりの愛がこもった水と、太陽を受けて成長した花が、その大きさに折れてしまわないように」
 言葉は大きな比翼を与えられ、無限の未来に向かって羽ばたく。
 気障すぎたかも知れない。砂を吐くような言葉に、彼女の心に恥ずかしさの種が芽生え、大輪の花を咲かせる。だが、それはセクターも同じだった。照れ隠しのつもりで頬をかいている。すれ違うふたりの気持ちは、こんなところで通い合う。
 顔を真っ赤にした太陽が雲の陰に隠れた。
 ふたり一緒に破顔する。





     //sector




 聞き慣れた肩の軋みに舌打ちをしながら、セクターは私塾の地下に設けられた調整室に入った。薄暗い。すぐに灯りを付ける。
 辺り一面に散乱したネジや装甲板、鉄くずを踏みながら中程へ進むと、相変わらず調子の悪い椅子に腰掛ける。
 一日の終わりに欠かせない、全身のチャックを済ませると、彼はくすんだ天井に昼の思い出を描いた。
 楽しかった――と言うべきだろうか。昼間にさんざん酷使した身体は、不思議と疲労をため込んでいない。
 きっと楽しかったのだろうと、彼は思った。立ち上がる。
 汚れた服を脱ぎ、簡素な夜着に着替える。寝る――休息する――場所は、ここ。寝室をかねている。何か問題が発生した場合、すぐに修理することが出来るからだ。
 改めて椅子に腰を据えた彼は、ひとつ忘れていたことを思い出し、テーブルに向いた。
 ――天使の羽根。あの、リビエルから貰ったという、朽ちることのない永遠の羽根。彼はそれを、昼間、ミントから受け取っていた。
 どうしてこんな大事なことを。彼は呟いた。自分に対する怒りがそこに込められている。
 所々欠けたテーブルの上にある羽根を前に、彼は心を落ち着けさせた。
 彼はそこに、教師の名前を書こうと思っている。これからもっと増えるであろう生徒たちに、先生の名前を覚えて貰おうとする、ささやかな配慮。
 提案したのはミントだった。
 了承したのは彼だった。
 ネームプレートの代わりに、この羽根を胸に挿したらどうでしょう、と彼女は言っていた。
 無造作に置いてあるペンを取り、薄明かりの下で輝く羽根を前にして、彼は逡巡することなくペンを走らせる。

『セクター』

 我ながら無感情な文字だな、と彼は思った。しかし、だからこそ覚えてもらえるのではないか。セクター先生は、こういうひとなんですよ、という。
 一枚の羽根に名前を書き終えた彼は、小さく吐息する。テーブルの上にある羽根は、二葉。片方はセクターが、もう一方は……
 彼は何度かペンをもてあそぶと、明日からの私塾を考えた。きっと大変なことになるだろうと予測している。
 大変――その言葉には二種類の意味がある。
 かぶりを振った。明日のことは、明日考えよう。明日からはひとりではなく、ふたりで教えることになるのだから。
 ペンを持ち直し、小さく息を吸うと、ひと思いに書ききった。彼の心に奇妙な満足感が満ちる。
 持ち上げて、光にかざす。きらきらと、満天の星を思わせる輝きが室内に満ちた。――息が、詰まる。


 その羽根には、まるで自分が書いたとは思えない、柔らかみのある文字が浮かび上がっていた。





atogaki
心理描写を多めに……したつもり。
むかしはこんな風に書いていたよな、と思い出しつつ。
やはり書かないでいると文も言葉も忘れますね。
最近になっていろいろと単語を思い出してきました。
遅きに失した感もありますが(「遅きに逸した」って誤用なんですね・・・)
まあそれはともかく、ミントとセクターはオフィシャルっぽいのに、SSの数がないような。
と言うわけではないのですが、ミントとセクターでした。

2007/2/13

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